昭和41年04月26日 夜の御理解



 話を聞くばかりが能ではない。我が心からも練り出せと、我が心からも練り出せと仰るような、信心とはどういうような信心か。練り出させてもらうところに今までおかげの受けられなかったおかげがスムーズにおかげの道が開けてくる。やはり練った上にも練ってみらなきゃいけん。どうしても例えばおかげを受けられんなら、ね、どういうところにおかげを受けられんのだろうかと、話を聞いて助かる道とも仰る。
 次には今言うような話を、聞くばかりが脳ではないと。聞いただけじゃあいかん。我が心からも練り出せとこう仰る。昨日、井上組の支払いのことで、もう銀行に、最近はあるだけまあいうなら、必要なものが必要なだけですけれども、さあこれからは五十万百万あったって間に合わん。もうこれからの請求は、もう先日からも七百万からあの、請求が来ているとこういう。
 ですから、もう普通ではもう追いつかんというてなら御信者さん方にさああなたがいくらその、お供え、あなたがいっちょう頑張りなさいというてその、お信者さん方にその、お供えの要求をするわけにもいかん。お道の信心は。寄進勧化をしては神は喜ばん、むしろそれが不浄になったらせっかくのあれだけの神様の御思いででけておるのに、不浄がつくような事であっては私も神様に対して相済まんと思う。その事を私神様にお願いさせてもらいよりましたらね。
 昨日の朝は金盞花の花を沢山頂いた。そのことを昨日夕べお願いさせて頂きよりましたら、今あの、春先にね白い花の私共の子供の時にこうやって、花を、皮を一緒にこうやって、あの、剥きよる、こう、するのがあるんですよ。それはバナナの皮をむくようにですね、花をそれこそ下げてそしてこう、じゃらじゃら花とかなんとか言いましたよ。あれをこう手でふって見せて下さるんですよ。御心眼に。ね。
 それこそお金はそれこそ、心配するなと。ジャラジャラいうごと集まるぞというような感じなんですよね。ほうそんならこりゃあ安心たい。神様がジャラジャラ言う事集めてくださりゃと、だけではいかんと思うですね。ですから神様はその、ちゃんと神様なら神様の予定があってジャラジャラ言う事、その集めてくださるのならそれを受け止めようとするそこにです私はあのどういう信心をさせてもらったら良いだろうかと思うて、ずっと、こう、あの祈念させてもらいよったらね。
 大黒様がこう、俵の上に座っておられるでしょうが。あれを、こちらの方をむいて座っておられるところを頂いたです。こりゃあまあいうなら私に、本当に真正面に向きを変えよとこう仰っておるのだろうとこう思うた。ね、現在の信心ではいかんのぞと。だからいわゆる信心の向きを変えよとこう私に言うて下さるが、そんなら果たして向きを変えるという事はどういうような事か、ただ向きを変えるだけならね、私が今南向きに座っておるけんで、東向きどんこう座るとか、西向きに座るだけでよかれば良いのだけれども、そんなわけにはいかん。
 本当にまともに俵の上にきちっとこう大黒様が座ってござるような、その向きをかえればおかげになる。そこに私はこれからいわば練らせて頂かんならんという事があるのです。先生どげな信心したらおかげを頂けるでしょうかと、私にきいたっちゃ分かるもんか、我が心から願わにゃんというわけなんですよね。ですから、日々こうやって信心の稽古をさせて御理解を頂くという事は、ね、信心を教えていただくのではあるのですけれども、やはりその話をもとにして我が心から練りださなきゃあいかん。ああでもなかろうか、こうでもなかろうかと。
 久留米の初代の石橋先生があんな大徳の先生でしたけれども、もうずっと借金がやっぱりあのご普請からこうずい分あったらしいですね。もう、来る年も来る年もあれだけの大きな教会でしたけれども利払いばっかりでその、しまえたげな。ね。それも何年も何年も続いた。あるお正月の元旦のおとそを祝わられる時にです元旦のおとそのお神酒を頂かれながら杯をもちながら、ああ今年もまた借金払いで一年間すまさんならんなとこう、ふっとこう人間ですからやっぱり思いなさったわけです。
 神様からどんどんお下がり頂くばってんそのお下がりが全部利払いでしまいてしまいよるけん、勢がないわけですね。先生としては。ふっとそう思いなさったら、その幽明からということなんですね。いわば神様の世界から、丁度頭上に四神様のお声があったと。ね。二代金光様のいわゆる石橋先生が四神金光様の御教えを頂いておられる先生ですから、四神金光様のお声でですね、「八百俵のお徳を授ける」というお声を受けられたち。それこそビックリされたんでしょうね。
 はあ自分が、今ご無礼なことを思うたら、神様は八百俵の徳を授けるとおっしゃる。よし神様が下さるならば、本気でそれを、頂こうという気になった、とそのお話しておられますですね。よし神様が下さるのなら、本気で頂くぞと、それからというものは、自分の出社だけではない、九州中のお道の教会をですね、四神様のお徳を、説いてまわられたというお話をで御座います。
 何年間それこそ利払いばっかりでですよね、そのしまえておったのに、一年間でその借金払いが無くなっとります。借金がなくなった、借金がなくなっておるのではない、八百俵の徳を受けておられるという事。その当時のお金で八千円の元金だったそうですね。借金が。今こそ八千円ちゃ本当にまあ、たいしたことではないのですけれども、当時の八千円は大した事だっただろうと思いますよね。
 その八千円のお金がですね、あの当時、久留米の大きな商社の人達が御信心をするようになったのはあの当時だと言われております。特にその中でもあのう、(国武?)かすりなんかはあの当時もうかすりが売れずにストックしてですね、どうにも出来んで行き詰まってしもうておったと。その時に始めて、その石橋先生のところにお取次を願うてから、お願いに見えたそうです。
 その時に神様から頂かれたのがですね、朝鮮に出せと仰ったそうです、神様が。それから朝鮮に出されたところ、どんどんどんどん朝鮮の方にはけ口がですね、ついてからその、瞬く間にそれが売れてしもうたというようなおかげを頂くもんですから、おかげを受けてから、例えばさあ百円、おかげを受けてから二百円のお供えをするならわけないことですものね。それこそ十何年間どうにも出来なかった借金がです。
 一年間の間でパタパタ借金払いが出来たと。しかも、ね、神様がその時に八百俵を授けるともおっしゃらなければ、八千円授けるとも仰ってなかった。八百俵の徳を授けると仰るところが素晴らしいのでしょう。ね。つこうて、八百俵の徳というのは、八千円という金を使うても使うてもやはり八千円だという事です。使うて減らぬ金百両なんです。その当時のお米が一俵10円だったそうです。
 ですから、八千円の例えば借金と八百俵の徳を持って、八千円の借金払いが出来ただけではなくて、石橋先生の元には絶えず八千円という徳はいつも持ちつづけておられたと言う事になるわけでしょうが。ね。それからというて私もなら、今日は、昨日からそんな風にお知らせを頂いたから、私もいっちょなら、四神様のお徳でも説いて回ろうかとその、真似じゃいかんところに難しさがあるのですけれども。
 私には私に神様が向きを変えよと、今のままでは今のままぞと、さあこれから信心の向きを変えよと。どう私はそこんところにです、私は私なりに練らなければならんところがある。話を聞くばかりが能ではない。神様がおかげを下さるというならば頂こうとまず意欲しなければいけん。意慾しなければです、意慾しなければ引っかからない。今日も私はここ二、三人の方にその事を話したんですけれどもですね。
 お互いがなら御造営なら御造営のおかげを頂きたい、もう本気で頂きたいと意慾しなければつまらん。その意欲するところに神様がちょっと引っ掛けてくださる。そこから、おかげが頂けれるんですね。ですから私共がこれは思うのに、例えば百万円の財産を持った人が、五百万円のお供えをしたら、百万円がもうのうなってしまうじゃないか。ね。おかげを頂くのならです本当に神様のおかげで、お供えが出来たと。
 神様のおかげでお供えが出来よるというように、しかも限りなしおかげが頂けれるような、私はおかげを頂かなければほんなおかげじゃあないと私は思うです。ですから、皆さんたちもどうでも一つ話を聞くばかりが能ではない。我が心からも練り出せと、ね、やっぱり今日の御理解をなんと頂くべきだろう。しかもそういうおかげを頂くときにゃあどういう信心をさせて頂いたらよいだろうかというならば、あけても暮れてもそのことを思いつづけておりますとですね、神様がフッとそれこそ悟ると言うのです。
 もう翻然として自分の心の中に下さる事があります。翻然として例えば夢の中でもお知らせ下さることがあるです。もうその時の心の中のもう賑やかさありがたさね。はあもう本当にこげなことが分かっとらなかったと。こんくらいのことが分かってなかったと。もう心が開ける、いわゆる悟りです。信心とは悟りとも言われております。ですから悟りとは自分の心の中に絶えず求め続けること。願い続けること。今日も竹内さんがここで、お伺いをするんですよ。
 先生こういうようなおかげを頂きたい。こういうような信心を分かりたい。どういう信心をさせて頂いたらよいだろうかという事をまあ、竹内さんなら竹内さんなりにこうやって、ご神意を伺うから、私が教えてあげることはあっけないこと。けれども私が教えたんではしかしおかげにならん、分かる事は分かるけれども、おかげにならんから不思議なんです。ね。そりゃあ、もうとにかくもう教えを行じる意外にゃないと。
 毎朝朝晩に頂く御教えを行ずる以外にゃないと。そこから、翻然として開けてくるもの。ね。それを悟りとも言うのだ。もう悟り、これが楽しい、信心は。ね、成る程信心は悟りなりである。それは、もうあなたのもの、自分のもの、これは有り難い。ね、心の中に翻然として、今までどうにも出来なかったものがふっとこう開けてくる。ね、昔のえらいお坊様達があの悟りを開かれる為に座禅を組んだりなんかなさった。竹の笹の葉がふっとこう動いたのを見て翻然と悟ったり、ね、
 はすの花がぱちっと音を立てて咲いたとたんに悟りが開けたといったような、話が残っておりますでしょう。もう本当に子供の泣き声からでも、流行歌の文句の中からでも神がものを言うて聞かすと仰るのですからその、神様が言うて下さるものを自分の心の耳にとっとこう聞きとめなければならん。為には求めなければならん。求めよ、さらば、与えられんである。私共は求め方が足りんのであった。練り方が足らん。どうして、どうしてとこういうものが、必要じゃあないでしょうかね。
   どうぞ。